松陰が海外渡航に失敗して、萩の野山獄につながれたころの話です。 ある日、松陰は夢にあらわれた神のおつげにより、
自分のことを二十一回猛士と呼ぷようになりました。
「吉」の字をばらばらにすると「十一」「口」になります。 「田」の字をばらばらにすると「口」「十」になります。 これらを組み立て直すと、「十一」と「十」をあわせて「二十一」、
「口」と「口」をあわせて「回」になります。
また、「杉」の字をばらばらにして「十」「八」「彡(三」の三つの数字に見立てます。 あわせると、これも「二十一」になります。
猛士とは、自分の信ずるところをつらぬく人という意味です。 松陰はこれまでに藩の許しをうけずに東北地方を旅行し、 「将及私言」という
意見書を書いて殿様に提出したり、 また国の掟を
破って外国へ渡ろうとしたことなど、三回大きな計画にぷつかって失敗しましたが、 二十一回猛子であるからには、まだあと十八回はふるいたってやるつもりであると、
さかんな意気をあらわしました。
松陰は1859年(安政六年十月二十七日)、二十九才三か月の若さで、 江戸伝馬町の獄にて刑場の露と消えますが、ここ誕生地にある墓には、松陰の髪の毛が埋めてあります。
墓の前には、門下生の前原一誠、久坂玄瑞、品川弥二郎、伊藤博文、高杉晋作など十七名が寄進して、 その名をきざんだ水盤や花立、灯籠が、そなえられています。
●参考・引用資料『親と子の史跡探訪』萩文化財保護協会
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