しかし今では昔の家はなく、そのあとに 土台石が置かれているだけです。
その広さを見ると、たくさんの家族が住む家としては、せまくて不自由だったことが想像できます。 実際に、松陰(寅二郎)をふくめて十一人の家族が暮らしていたこともありました。
しかも杉家は、石高二十六石の
身分の低い武士でしたので、父親の百合之助は城の勤めのひまをみては、 田畑の仕事をしながら生活していました。松陰(寅二郎)は二才上の兄、梅太郎といっしょに父につれられて、
よく田畑の仕事に行き、そこで手習いや読書を父から教わったのでした。 まさに田畑が松陰の勉強部屋で、木ぎれや竹べらが筆や墨のかわりだったのです。
1848年(嘉永元年)、杉の一家が松本村の清水口という所にかわるまで、 松陰は生まれてから十八年間をこの丘の上の小さな家で過したのでした。
松本村の清水口は、現在、 松下村塾や 松陰神社がある所です。
●参考・引用資料『親と子の史跡探訪』萩文化財保護協会
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