■玉木文之進旧宅■ 松陰神社・東光寺周辺マップ
伊藤博文
別宅より松本新道に戻ります。 松陰神社とは反対の坂道を登っていくと、600メートルほどの場所に 茅葺きの家が見えます。
ここが、松陰の叔父にあたる王木文之進の旧宅です。
文之進は1810年(文化七年)、 松陰の父杉百合之助の弟として生まれ、十才の時に、 石高
四十石の玉木家をつぎました。 文之進は、兄百合之助や大助に負けない勉強家で、武術を練り学問にはげみました。
※杉百合之助には二人の弟がいました。
下の弟が大助といって、吉田家を継ぎます。
その下の弟が文之進で、玉木家を継ぎます。
吉田松陰の幼い時の名前は杉寅次郎といい、杉百合之助の二男でしたが、 吉田家に入った大助の後を嗣ぎます。
松陰は、兄梅太郎とともに文之進について勉強しました。文之進の教え方はたいへんきびしくて、 本の読みぷりや勉強する時の姿勢が悪いと言って、よく松陰をきぴしくしかったのでした。
のちに松陰は、「玉木の叔父に叱られたほどこわいことはない」と、言っているほどです。 松陰が十三才の1842年(天保十三年)、文之進は近くの子どもを集めて塾を開き、
松下村塾と名づけました。松陰も兄梅太郎とともに、毎日そこへ勉強にかよいました。
そののち文之進がいそがしくなり、教えることができなくなると、塾は一時すたれましたが、 松陰の親類の久保五鄭左衛門が、自分で開いた家塾に松下村塾の名前をつけました。
さらにそれを松陰がひきつぎましたので、実は玉木文之進の家が、松下村塾の始まりの地というわけです。 今も、玉木文之進の旧宅の前に、
「 松下村塾発祥之所」
という石碑がたっています。
●参考・引用資料『親と子の史跡探訪』萩文化財保護協会
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