■伊藤博文旧宅■
松陰神社・東光寺周辺マップ
吉田稔丸誕生地
より、松本新道を東に約100メートル向かうと、分かれた路地があります。 その路地に入ると、 茅葺きの小さな家が見えます。
この家が、松陰の門下生のひとり伊藤博文の旧宅です。
博文は1841年(天保十二年)、 熊毛郡
束荷村
(今の山口県 大和町束荷)に生まれました。
父親の名前が林十蔵、母親の名前は琴子といい、博文の幼い時の名前は 林利助
でした。最初は、父親の十蔵が萩藩の 中間、伊藤家に奉公にきていました。
博文が九才の時、父十蔵を頼って、母子ともに萩に移ってきました。 萩に来てからの博文は、法光院(現在の円政寺)で、寺の雑用をしながら、読み書きを習ったり、
萩の上級武士の子どもの奉公をしたり、大変な苦労をしています。
父親も母親も伊藤家の奉公人でしたが、伊藤家に跡継ぎがいませんでした。 博文が十四歳の時に、父親の十蔵は、伊藤家の養子となり、利助も伊藤利助と名乗るようになります。
その後、伊藤利助は利介、利輔、博文と名前が変わります。
博文は十八歳の時に松陰の門下生となり、高杉晋作らとともに志士として活躍しました。 松陰は博文のことを、「なかなかの政治家になりそうな」と見抜いています。
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