■松下村塾
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杉家の旧宅の敷地のなかに、瓦ぷきの粗末な家があります。この建物が松下村塾で、講義室だった 八畳の部屋には松陰の像と机が置いてあります。
松下村塾というのは、松本村にある塾という意味です。

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野山獄から出た松陰は、杉家の幽囚室で講義をしていましたが、だんだん門人が多くなってきました。 そこで1858年(安政四年十一月)、杉家の敷地にあった物置小屋を修理して、
八畳一間の部屋を作りました。 |
そののちも門人の数はさらに多くなり、一段と狭くなったので、あくる年の三月、
塾生の控室を 一棟建てることにしました。
松陰と塾生が力を合わせて屋根を葺き、
壁を塗り、天上を張って十畳半の建増しをしました。 それが今残っている松下村塾の建物です。
村塾に集まってきた門人は多い時には、五十人ぐらいいましたが、 毎日の勉強には十四、五人が集まりました。松陰は武士や町人の区別なく入門を認め、
ほとんどの塾生が身分の低い人たちでした。 1858年(安政五年十二月二十六日)、ふたたび野山獄に入れられるまで、 松陰は村塾でわずか一年間教えただけでしたが、
久坂玄瑞、
高杉晋作、
伊藤博文、
山県有朋、
前原一誠、
品川弥二郎
などの門人が、のちに幕府を倒す運動をおこし、明治維新をなしとげる活躍をします。 |
●参考・引用資料『親と子の史跡探訪』萩文化財保護協会
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