■藩校明倫館■ 御成道マップ
萩循環まぁーるバスマップ
唐樋地蔵堂を
東に向かうと、二車線道に出ます。 この通りは、昭和四十年代に拡張されましたが、 江戸時代には、雑賀下り筋と
呼んでいました。
この二車線道に沿って、南北に長い、江戸時代の建物が見えます。これは 有備館といわれる、
藩校明倫館の残された建物です。
有備館は、剣術や槍術の練習をおこなったところです。 また、ほかの藩から剣や槍の修業に来た人たちとの試合場にも使われました。
討慕運動に活躍した土佐(今の高知県)の坂本龍馬が、1862年(文久二年)に萩を訪れれたとき、 ここで剣術の試合をしたといわれています。
藩校明倫館は萩藩の公立学校で、現在でいいますと、県立の小中学校、高等学校、大学、大学院の総合学園 になります。江戸時代の身分制度では、明倫館に入学できる資格は
士の子弟ででした。
足軽や、農民、商人、職人の
子どもたちは、入学できませんでした。それでも、成績優秀な子どもは、 士の家に養子になり
明倫館に入学することもありました。
現在の場所にあった藩校明倫館は、萩藩最後の藩主、第十三代 毛利敬親の代の
1849年(嘉永二年)に 堀内から江向
移されたものです。
もともと、藩校明倫館は、第五代藩主 毛利吉元
の代の1719年(享保四年)に、萩城の近くの堀内の三の丸に建てられました。 吉元は、藩士の子弟の教育にカを人れ、 人づくりによって政治をおこなおうと考えたのです。
それから百三十年たって、藩校明倫館は、 堀内から現在の明倫小学校のある江向に移されました。大きさはそれまでの十五倍にもなり、
建物も立派になりました。敬親には、教育の重要性を知っていました。 学問をさかんにして、政治を動かし、社会に役立つすぐれた人材を育てることにより、
は藩を立て直すことを、敬親は考えたのです。
●参考・引用資料『親と子の史跡探訪』萩文化財保護協会
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