【慶安古図】
左の絵図は、城下町が築かれてより城の設計の総責任者として、東側と指月山頂上の詰丸は 吉川広家、
西側は毛利秀元
が指揮をとりました。 工事現場の総監督は、 益田元祥・
熊谷元直・
天野元政・
宍戸元続の四人が、
交替でつとめました。石垣の工事は、家臣たちの身分に応じて割りあてられ、土持ちには、足軽が使われました。 もちろん、武士だけでなく、近くの農村からは多くの農民たちが土木工事にかり出されたました。
石材は、指月山のふもとの岩石でほとんど間に合いましたが、不足の分は、 隣村の大井・奈古(阿武町)や青海島(長門市)から運び出しました。
木材は、阿武・大津・豊田(豊浦郡の東半分)の三っの郡に割りあてましたが、 大部分はやはり萩のまわりの霧口・川上・佐々並の村々から
阿武川
を利用して運びました。
瓦は、和泉国
(大阪府)の 堺のものを多く用いましたが、地元で焼いた瓦も使いました。
毛利輝元は、萩城の工事が始まった年の十一月十一日に萩へ移り、翌年には、家臣たちに屋敷を割りあて 、商人や職人をよんで、町づくりにとりかかりました。
現在では、萩の町は、松本川と橋本川にかこまれた三角州のうえに発達していますが、 当時、このあたりは、大部分が沼で、アシのはえた水たまりでした。
また、川上から萩までは竹や木がしげり、堀内から浜崎までは松原でした。 町づくりは、竹や木をのけ、松を切って根を掘り起こし、
埋めたてをして道路や屋敷地をつくることから始めなけれぱなりませんでした。 それには、多くの人たちの労力を必要としました。
萩城は、工事を始めてから四年後の1608年(慶長十三年)に完威しました。 五層の立派な天守閣のそびえる城を中心に、武家屋敷や寺院、それに商人や職人たちの町ができあがり、
萩は防長両国の中心地として栄えていきました。
城の設計の総責任者として、東側と指月山頂上の詰丸は 吉川広家、
西側は毛利秀元
が指揮をとりました。 工事現場の総監督は、 益田元祥・
熊谷元直・
天野元政・
宍戸元続の四人が、
交替でつとめました。石垣の工事は、家臣たちの身分に応じて割りあてられ、土持ちには、足軽が使われました。 もちろん、武士だけでなく、近くの農村からは多くの農民たちが土木工事にかり出されたました。
石材は、指月山のふもとの岩石でほとんど間に合いましたが、不足の分は、 隣村の大井・奈古(阿武町)や青海島(長門市)から運び出しました。
木材は、阿武・大津・豊田(豊浦郡の東半分)の三っの郡に割りあてましたが、 大部分はやはり萩のまわりの霧口・川上・佐々並の村々から
阿武川
を利用して運びました。
瓦は、和泉国
(大阪府)の 堺のものを多く用いましたが、地元で焼いた瓦も使いました。
毛利輝元は、萩城の工事が始まった年の十一月十一日に萩へ移り、翌年には、家臣たちに屋敷を割りあて 、商人や職人をよんで、町づくりにとりかかりました。
現在では、萩の町は、松本川と橋本川にかこまれた三角州のうえに発達していますが、 当時、このあたりは、大部分が沼で、アシのはえた水たまりでした。
また、川上から萩までは竹や木がしげり、堀内から浜崎までは松原でした。 町づくりは、竹や木をのけ、松を切って根を掘り起こし、
埋めたてをして道路や屋敷地をつくることから始めなけれぱなりませんでした。 それには、多くの人たちの労力を必要としました。
萩城は、工事を始めてから四年後の1608年(慶長十三年)に完威しました。 五層の立派な天守閣のそびえる城を中心に、武家屋敷や寺院、それに商人や職人たちの町ができあがり、
萩は防長両国の中心地として栄えていきました。 |