まず、山口は、大内氏時代の中心地でしたが、海に面してなくて、時代にそぐわない所となっていました。
防府は、山陽道ぞいにあり、海に面しており、交通に便利でしたが、桑山が砂山のため、 石垣が築きにくいという難点がありました。
萩は、領地の中心からひっこんでいましたが、関ヶ原の戦いの前に輝元がいた広島城と同じように三角州が発達し、 しかも海に面しており、海や川の交通に便利でした。
輝元は、家老の福原広俊を江戸につかわし、
国司元蔵
とともに、家康の家臣の本多正信・正純
親子の意見を求めさせました。本多親子は、 三つの候補地の絵図を詳しく見ながら、それぞれの土地の様子について、 念を人れて質間しました。その結果、本多氏の意見は、萩の指月山に城を築いた場合、敵を迎えうつには、
ちょうどよい所だということでした。
そして正信は、
「防長 (周防・長門)の東と西の境目には、誰を置いたか。」
と、尋ねました。
広俊と元蔵は、「東の岩国には吉川広家、西の長府には毛利秀元を置きました。」と、答えました。
すると、正信は、
「岩国と長府と萩とでちょうど 鼎(三本足の金属器)のようになって、
萩の指月山に城を築けば、それはますます位置がよい。」
ということになりました。
こうして、萩の地に城と城下町をつくることが決定しました。
●参考・引用資料『親と子の史跡探訪』萩文化財保護協会
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