■防長への国がえ■
関ヶ原の戦が終わったのちも、西軍の総大将の毛利輝元は、 大坂城にいました。徳川家康は、輝元に城を出るように要求しました。
毛利秀元は、まだ家康方との戦いをあきらめていたわけではなく、 ほかの家臣のなかにも城にたてこもって戦おうというものが少なくありませんでした。
しかし、輝元は、家康方との戦いをあやぶみ、領地をそのまま認めるという家康方の約束を信じて、 吉川広家の意見にしたがい城を出ました。
ところが、そのすぐ後に、大坂城に人った家康から使者がきて、毛利氏の処分を伝えました。 輝元は、西軍の総大将としての責任をとって隠居すること、これまでの領地八か国百十二万石は、
家康がとりあげ、そのかわりに輝元の子の秀就に周防・長門の二か国をあたえるというきびしい内客のものでした。 秀元は、家康が輝元との約束をやぷったことをいかり、広家も、ことの意外ななりゆきにおどろきましたが、
すでに天下の大勢は徳川氏へと移っており、どうすることもできませんでした。
●参考・引用資料『親と子の史跡探訪』萩文化財保護協会
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