■関ヶ原の戦い■
広島城が築かれた十一年後、と同時に、萩城がつくられる四年前の1600年(慶長五年)は、日本の歴史のうえで、 たいへん重要な事件が起きた年です。日本中の武士たちが東と西にわかれて、天下を争ったのです。
その東軍の総大将が徳川家康で、 西軍の総大将が毛利輝元でした。
それまで天下をとっていた豊臣秀吉が死んだあと、江戸にいた家康が大きな勢力を持ちはじめ、 多くの大名を味方につけ、天下をねらっていました。いっぽう、秀吉のおさない息子秀頼をもりたてて、
豊臣方の力をのばそうとした石田三成には、
このような家康の態度は許せないものでした。そこで、三成は家康をしりぞけようとして、 中国地方八ヶ国百十二万石の 大大名であった
毛利輝元をさそいました。 こうして、輝元は西軍の総大将として大坂城に入りました。
いよいよその年の九月十五日、東軍と西軍は美濃(岐阜県)の関ヶ原に陣を取って、にらみ合い、 運命の戦いの火ぷたか切られようとしています。
輝元は代理として毛利秀元と
吉川広家
を出陣させていました。広家はこのまま徳川方の東軍と戦っては、毛利家があぷないと心配し、 前もって、ひそかに徳川方の家臣と話しあいました。
その結果、関ヶ原の決戦の前日に、徳川方から、これからも輝元をおろそかにすることなく、 領地の八か国もそのまま認めるとの約束をとりつけました。
関ヶ原は、関西と関東を結ぶ、どうしても通らなければならない交通の重要な地点にあります。 しかも、東日本と西日本の境界ともいえ、西軍の豊臣氏の天下がそのままつづくか、東軍の徳川氏が天下をとるか
という、まさに「天下分けめの戦い」にふさわしい土地でした。
朝から始まったはげしい戦いは、初めはむしろ西軍の方が有利でした。しかし、すでに徳川方との約束をとりつけていた広家は、戦いが始まっても、陣地から動こうとしません。
これではその後ろに陣をはっていた秀元もどうしようもありません。 そのうちに、西軍の小早川秀秋が、
家康の催促をうけて、東軍へねがえりをうって、西軍に攻撃をしかけました。 これをきっかけに、西軍は総くずれとなり、とうとう毛利軍は戦いに参加することなく、
東軍の勝利となりました。

●参考・引用資料『親と子の史跡探訪』萩文化財保護協会
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