■江戸時代の 浜崎■
寺町・浜崎マップ
浜崎には、江戸時代末の町人屋敷三百五十八軒について、一軒ごとの名前と、 その家の商売について記した文書が伝わっています。
江戸時代の浜崎の様子について知ることができる、貴重な資料です。 それによると、半分以上の家々で、商売や問屋を営んでいたことが分がります。
商
われていた物としては、魚と食料品が最も多くあげられています。 魚、穀物、そばやうどんなどの粉製品、野菜、豆腐、菓子などの食料品が、約百軒の家で商われています。
その他、酒や醤油、油、綿、材木、ロウソク、煙草、日用雑貨といった品々が、 五十軒以上の家で商われています。商売が大変盛んであったことが分がります。
間屋というのは、大量の品物を仕入れて小売商店に売ったり、 それらの品物を他の場所に運んで売ったり利益をあげます。 浜崎に多かったのは、回船間屋や魚間屋と呼ばれる間屋です。
浜崎に寄港する他国の回船や、自ら所有する回船を利用し、 様々な品物を大量に買い入れたり売ったりするのが回船問屋てす。 魚問屋というのは、自ら綱や漁船を所有し、人を雇って漁を行ったり、
漁師から魚を買ったりします。そして、その魚を加工したり、魚を商う者に売ったりします。 回船問屋にしても魚間屋にしても、大変な財力が必要とされます。
これらの問屋が三十軒以上もあったのですから、浜崎は、経済的にも大変な力を持っていたと考えられます。
仲仕
と呼ばれる荷物の運搬を職業とする家や、 上荷乗
と呼ばれる荷船に乗ることを職業とする家などが、百軒近くあったということも注目されます。 船による運送が盛んであり、船や蔵や商店の間で、大量の品物を運ぶ必要があったことがうかがえます。
また、船大工や 石工
を始めとして、様々な職種の職人も多数いたようです。現在浜崎には、船大工町という地名が残っています。 その近辺には、多数の船大工が住み、回船や漁船などを盛んに造っていたと考えられています。
石工たちも、船で運ばれた重い石材を、港近くで加工していたと考えられます。 その他にも多数の職人がいたということで、浜崎では、それだけ様々な枝術が必要とされれていたのです。
様々な品物や枝術や人の力が集まった所が浜崎でした。
江戸時代には活気のある浜崎でしたが、近代にはいり、萩駅まで鉄道が開通した 1925年(大正十四年)頃から、次第に様子が変わっていったといわれています。
物資輪送が海上から陸上に変わり、港町である浜崎の果たす役割が、以前ほど大きくなくなったからです。 しかし現在でも、かって萩の経済や文化を支えてきた浜崎の伝統は、様々な形で守り続けられています。
●参考・引用資料『親と子の史跡探訪』萩文化財保護協会 |