■水車筋■
藍場川マップ
萩循環まぁーるバス〈東回り〉 《萩美術館浦上記念館前》で降りて、先の信号に目を向けると、正面に美術館の建物、 右手に
山県有朋の
銅像があります。
先の信号を左に曲がり、少し行くと、 藍場川に添って
歩くようになります。 この道を、水車筋と
いいます。
水車筋を歩いて、藍場川が東へ直角に折れ曲がる地点は、川幅が少し広くなっています。 ここは舟まわしといって、川舟の向きを変えた場所です。その舟まわしの南側に、
土塀で囲まれた一画があります。 この中が藍玉座
の跡です。

藍玉座とは、藍色の染料となる藍玉を製造した所で、藍場川が開削されておよそ二、三十年後に 設けられました、藍はタデ科の植物で、この葉や茎が藍色の染料の元になりました。
藍玉座が藍場川のすぐそばに置かれたのは、藍の葉から藍玉をつくるのにたくさんの水を必要としたからです。 また川が近くだと、原料の藍の葉や製品の藍玉を舟で運ぶのに便利だったからです。
ところで、藍場川の名前は藍玉座ができるまでは、
大溝と
呼ぱれていました。藍玉座が藍場とも呼ばれるようになって、いつしか、 大溝も藍場川と呼ばれるようになりました。 藍玉座の北側、やはり藍場川のすぐそぱには、
製蝋板場
がありました。製蝋板場とは、ろうそくやびんつけ油の原料となった蝋を製造した所で、 藍場川が開削されたころに設けられました。
江戸時代にはろうそくは灯火として、びんつけ油はちょんまげなどの髪形を整えるのにも用いられました。 この二つの品物は、当時の人々が日常生活を送るうえで、なくてはならないものでした。
蝋は
櫨の実からつくりました。
そして水車を利用して、櫨の実を 臼
でつき、粉にしました。この水車を動かすのに、大溝の水の力を必要としました。 当時の製蝋板場の図面を見ますと、全部で十六の臼を一つの水車でついていたことが分かります。
この水車ができてから、そのすぐ東側の通りを水車筋と呼ぶようになったということです。
さらに製蝋板場の北側、大溝が新堀川と出会うあたりを石屋町上いいます。 この町には、江戸時代には灯ろうやお墓などの石造物をっくる職人がたくさん住んでいました。
これらの職人たちを石工といいます。今でもここには、その石工のひとりがっくった 小さな橋が藍場川にかかっています。きっと大溝や新堀川を利用して、
重い石材や石造物を舟で運んだことでしょう。
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